ご先祖様と二つの館跡

陶氏の起り

武士の名乗りはその本拠地から。ということで、我らも元をただせば「陶」の地がその発祥の地である。
本家本元が大内ならば、祖先伝説は共通で、さらに遡ればれいの百済のなんたら王子に行き着く。そこらは、彼らの創作(捏造)に任せるとして、我ら「陶」一族の起こりは弘賢なる人物である。

系図

多々良から大内が出、そこから右田が出、さらに陶が出た。

俺から見て素性が知れているのはせいぜい、父上のそのまた父上(祖父上様)くらいだな


(館跡看板、その他通説より作成。参考文献あり)

二つの館跡

「陶」の祖、弘賢公は文字通り「陶」の地に住んでいた。しかし、その二代目、弘政公は富田に館を移してしまった。以来ずっと本拠地はそっちだ。

現在、元々の「陶」の地には、正護寺という寺院が建っている。寺院の創建は、弘政公であり、イマドキから数えて六百年ほど昔のことになる。陶にあった居館跡の目の前に建てられたとされる。
時は流れ、寺院は戦渦にみまわれて失われてしまったが、後に先祖の館跡があった場所に再建された。今も同じ場所に残り、ゆかりある人々の墓や供養塔が大量にある。

富田の館跡のほうが、歴史的にはずっと長いのだが、現在ここには何もない。普通にイマドキの公園となっていて、石碑や案内看板がかつてここにあった事実を告げているだけである。

正護寺(陶)

のどかな田園地帯の中にある。

開山僧と正護寺殿・弘政公の供養塔とともに、陶晴賢分骨塔なるものがある。ほかにも、二百五十年忌に地元の方々が建てたという「三界万霊」なる供養塚もある。発祥の地だけに、思い入れも深いのだろう。

お墓の写真はたんまりと写真館に入れるので、ここではそれ以外をPickup。

「ボウ虫墳」という供養塔は、珍しいものとして、寺院の案内看板にも載っている。文字通り多くの虫が死んだことを弔うために建てられたものだが……。

「多くの虫の死」って、いったい何があったの?

県指定文化財となっている薬師如来座像や、寺院創建当時のものとされる仏像や開山僧の像などがあって、希望者は拝観できる(※要事前連絡)。

陶氏居館跡


陶の館跡も何もなかったが、こちらも同様。大内氏館跡が発掘調査されていることを思えばちっとばかり悲しい。まあ、かつての領主たちの館跡がイマドキの民の営みに埋もれている例は数え切れない。そう考えると、所在が明らかになっており、立派な石碑や詳細な説明看板が立っていることはとても貴重。
地元の人たちの関心が深くなければ、永遠に埋もれたままで終わってしまうから。

蹴鞠ならぬサッカーに興じるイマドキの童たちが頼もしく見える夕暮れどき

正護寺写真集
陶氏居館跡写真集

館跡(陶)

館跡(富田)

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