功山寺(下関市)

陶鶴寿丸の墓がある寺院・功山寺

陶のくに最後の当主は長房。彼の主君・義長がここに眠る。そして、彼の墓を守るように、左右にひっそりと並ぶ小さな墓のひとつが、陶鶴寿丸のものとされる。

彼については、長房の子とも、末弟ともいわれ、はっきりしない。鶴寿丸が代々嫡系の跡継につけられた名であることから、長房の子、と思う。幼子は、この寺院で主に殉じたから、たとえ、父親が誰であれ、ここが彼の死地。弔われたのも同じ場所というのが自然。

元は臨済宗・長福寺といい、後醍醐天皇の建武年間、既に存在。足利尊氏や長門守護・厚東氏、ついで大内氏と信仰されたが、大内義長自刃の際に荒廃。その後、毛利秀元が長府に入って、これを修築し、曹洞宗に改めた。秀元の死後、功山寺と名がかわり、現在に至る。
「城下町・長府」として保護された、周囲の景色も美しい寺院。
仏殿が国宝。山門と旧境内がともに下関指定文化財。

総門

功山寺総門
室町時代の建築物。この写真からは見づらいが、功山寺様HPによれば、正面扁額の文字は「海右第一峯」。

山門


功山寺は十四世紀に建てられた古刹だが、名称や所在地、宗派は変遷した。
後に、長府・毛利藩主の菩提寺となり、大切に受け継がれてきた。
現在の山門は、江戸時代に再建されたもので、重要文化財。

仏殿

功山寺 仏殿(看板)
仏殿は美しい唐様建築で鎌倉時代の創建。我が国最古の禅寺様式を今に伝えるもの。「国宝」に指定されている。

回天義挙碑

回天義拳碑
功山寺は古式ゆかしいと同時に、維新の気質にも溢れたところだ。
高杉晋作氏ゆかりのものは、下関市内各所にあるが、ここにも。
じつは、颯爽たるお姿の銅像もあるのだが、見落とした……。

維新の話はとっくに死んでた僕たちにはわからないので、功山寺様のホームページを見てね。中身は濃厚だよ。
(妖怪なら生きていたはずだが……)

法堂功山寺本堂

じつは……これ、よく分らない。地図などから、この名前の建物ものだろうと類推。いわゆる本堂でいいのかな?

名水

功山寺名水由来(看板)
功山寺には名水の由来がある。
同じ水を、大内義長も高杉晋作も飲んだのだろうか……。
(立て看板によれば『飲んで』いる)。
立場も時代も、主義思想もまったく違う彼らに共通するもの、それはいずれも、長寿をまっとうできなかった、という点である。
皆に愛されている高杉氏と違って、大内義長のほうは日陰の存在だが、生きている以上、人は水を飲まなくてはならない。
あるいは、ここに二人の接点があるのかもしれない。

大内義長の墓


大内義長の墓と伝えられる石塔。
石塔は三つあるが、中央が彼のものとすれば、両脇を守るように建つ小さな石塔は誰のものなのだろうか。その答えは、古川薫先生のご本の中にあった。

義長が自決した場所は、現在遺されている仏殿であろうといわれ、功山寺墓地には、義長と、陶晴賢の末子鶴寿丸、義長の小姓杉民部の墓といわれる三基の宝篋印塔がある。
『城下町長府』古川薫 新日本教育図書 50ページ

陶弘護イメージ画像(軍装)
文明八(1476)年には我が主、明応五(1496)年には、その息子・亀が安堵状を出しおり、こうした古文書類が『長福寺文書』として遺されている。主の孫の安堵状は寺院様HPで見ることができるぞ。
ええ、やがて防長の主が我が毛利家にかわった後、寺の名前も功山寺となった。つまり、以後の安堵状は我ら毛利家の名で出され、『功山寺文書』として遺っているのだ。

 

参考文献:『城下町長府』古川薫 新日本教育図書
功山寺様HP:http://kouzanji.org/
下関市公式観光サイト 楽しも様:https://shimonoseki.travel/spot/detail.php?uid=97