駒ヶ林(宮島)

駒ヶ林展望

駒ヶ林:厳島合戦戦跡。忠義の猛将・弘中隆包終焉の地。

たいていの観光客はロープーウエーを使って弥山の頂上に行くと思うが、そこから遥かにこの場所が見える。
弥山から仁王門⇒大元公園へと向かうルートを使って桟橋に戻れるから、ロープ―ウエーに乗る時は、往復チケットを買って帰りも同じ道を戻ろうと思ったら絶対にだめである。ルートは色々あり、幾通りもの楽しみ方ができるのが宮島のいいところ。二回も同じ道を通ったらもったいないのだ。

僕も弥山の頂上で出逢ったガイドさんに、この場所を教えてもらったんだ。チケット代は無駄になったけど、それを上回る感動の体験ができたよ。

駒ヶ林概要

駒ヶ林は標高509メートルで宮島では弥山に次ぐ高い山である。
廿日市商工会議所『宮島本』126ページ。

「厳島(宮島)の山塊は大別すると弥山・駒ヶ林・岩舟山の集まりで、地質はいずれも、花崗岩類である。弥山の北西部 500mに位置している駒ヶ林(509m)の山頂部は南北で35m2 東西で10mの岩石床で表土はない。 駒ヶ林の西面は高さ約50m、長さ約450mにも及ぶ断崖が 北から東へ20°の方向にのび、断崖の傾斜は西に約85°の 一枚岩で岩登りのトレーニングの場となっている。 この壁面は弥山本道の幕岩の壁面や駒ヶ林西方約300mに 見られる断崖と平行に並んでいて厳島の地形を特徴づける ものとなっている。 又、駒ヶ林は弘治元年(1555)の厳島合戦の古戦場の一つで、 龍ヶ馬場の攻防として知られている」
(駒ヶ林・説明看板)

文字通りの「断崖絶壁」。ロッククライミングファンなら大喜び。

駒ヶ林からの展望

今この地に立ってみると、そこが切り立った崖の上で、あまりにも狭いことに驚かされる。ここにたとえ一部隊でも軍勢を置いていたのだとしたら、はみ出して谷底深く落ちていきそうだ……。思わず絶句する。
実際に、ここから足を滑らせたらたいへんである。高所恐怖症ではなく、山登りのベテランならば、切り出した岩の先まで踏み出すことは可能。それ以外の人にはかなりの勇気がいる。
そのかわり、先端まで行ったなら、さらなる絶景を拝める。

この崖は花崗岩でできているそうであり、遠くから眺めると、断崖絶壁に樹木や草花が生えているのが絵馬のように見えることから別名「絵馬ヶ岳」とも呼ばれているそうだ(上掲書)。

この場所からの展望は素晴らしい。

戦跡としての駒ヶ林

厳島合戦については、勝利者側から書かれた史料に典拠した一方的な通説が長いこと優勢になっていて、敗者側からはどれも悲しくて耳を覆いたくなる。
毛利元就が人柄的にもよくできた人物で、ファンも多いので、ある意味しかたないことではある。
ただし、弘中隆包さんが忠義の家臣であり、大内家でも五本の指に入る猛将であることは疑いようもない事実だ。
この点については、勝者の側から歪曲され、多少都合よくアレンジされた「かも」しれない史実の中にも、彼を悪く書く人がいないことからも分かる(勿論すべての史書を調べたりなんてしてないから断言できない)。

この合戦についてまともに知ろうと思ったら、『陰徳太平記』だの『吉田物語』だの、あるいはそれらを元にしてまとめてくれた一般書や、それを読んだネット民などが発信している情報を鵜呑みにしてはダメだ。
少し前までの古本類だと、恐ろしいまでにこれらの書物の受け売りとなっているものがある。しかし、最近では、この合戦に限らず、軍記物は信頼に値しないから参考にできないとする説が普通となっている。
それでも、軍記物の類は多少の誇張や、書き手に都合の良い脚色があったにせよ、当時の関係者が記したという点で、まだまだ価値があるとミルは思う。
イマドキの研究者の先生方は、それらを参考にしつつも、どこが信用ならない点なのかを明らかとしながら自論を展開しておられる、そんな傾向のような気がする。

さて、知略勝ちというよりは、暴風雨のおかげじゃんね? とも思ってしまう毛利の奇襲に遭い、大内方の防御線は崩れてしまったが、総大将の五郎様さえ無事ならば、幾らでも再起の可能性はある。
そこで、なんとか踏みとどまって同僚(言っておくが、『大寧寺』はクーデターであったかもしれないが、戦国時代の下剋上などではなく、あくまで守護大名家の家臣たちによる主の首の挿げ替え。無能な主には引っ込んでもらわないと、お家存亡の危機となるからだ。当主はあくまで、大内義長であって、五郎様が取って代わったのではないのでそこを間違えはいけない。その点で、弘中と陶は同等である※)を逃がそうと頑張ったのがこの弘中さんである。

毛利家は彼を倒すために面倒な思いをし、多少の手間をとられたものの、悲しいことにはただそれだけだった。兵糧尽きていかんともしがたく、弘中さん父子はこの地で自害して果てたのである。

忠義の人・弘中隆包

弘中家は元々岩国のあたりにいた豪族。義興期、弘中武長の頃から特に重く用いられるようになった。武長は大内水軍の総大将をつとめたり、山城の守護代となったり、さらには、伊勢神宮の山口勧請に際して奉行として現場監督をしたり……と八面六臂の活躍だった。
弘中隆包も東西条の群分守護を務めるなどした重臣だが、毛利家との全面対決に際して、海路厳島を主たる戦場とする作戦に最後まで反対した人物とされる。
これについても、通説だから事実は知らない。
ただし、彼のような有能な家臣の意見をきちんと取り入れられなかった点に、大内義長傀儡政権の限界を指摘する研究者の先生方もおられる。
弘中さんのすごいところは、たとえ自分の意見が聞き入れなかったとしても、それによって作戦に非協力的となる、という態度はとらなかったことだ。出陣にあたり、奥方にもはや生きては帰れないかもしれないとの手紙を残していたというから、事実そうなったことには本当に気の毒でならない。

涙に霞む目で見下ろすと、遥かに宮島の海が見えた……。

伝説となった戦闘

なお、『宮島本』では、駒ヶ林を宮島の「伝説」の項目で紹介している。だから、山の高さなどについては正確だけど、弘中さんたちとの戦闘が実際にこの地で行われたかどうかなどは、今のところ、「史料」に基づいた「史実」ではなく「言い伝え」に分類されているのかも。

でもね、たまに思うんだけど、時には史料でガチガチにならずに、自由に言い伝えを信じてもいいんじゃないかな。何もないところからは噂も生まれない。語り継がれてきたことの中には、きっと真実がある。信じるかどうかは己次第でいいんだよ。

※あくまでもミルの意見。ただし、この政変についても、研究者の意見はそれぞれ。最近は=下剋上一点張りではなくなってきている。それらについてはは場を改めて。
参考にさせていただいたご本:『宮島本』

初出:2021年2月17日 11:59 「周防山口館」