「厳島合戦跡」全看板

世界遺産・宮島には、厳島神社の大鳥居に感激し、ロープ―ウェイで弥山に登っていく一般の観光客に無視されるようにして、かつての合戦跡看板がそこここに立っている。
見て分かる通り、看板には毛利家の家紋がべったり。ここで大内家を礼賛する場違いな人はなかなか見つけられないだろう……。
この看板、じつによく書けている。すべてを読めば合戦のあらましはバッチリわかるかと。ただし、それぞれがゆかりの地に置いてあるので、神社だけの人がコンプリートするのは難しい。
全部制覇したミルが、ひとつひとつ立て看板にそって説明する。

説明する……というより、看板を掲示してあるだけね……。

「厳島合戦跡」総合看板

撮影場所:桟橋付近。その他多くの世界遺産看板などとともに、到着した観光客が最初に目にする場所にある。
説明:トップバッターにして総合まとめ。誰もが知っていることを書いているだけじゃん、って言われたらそれまでだけど、「こんなことがあったとさ」でかまわない人は、とりあえずこれだけは読んでから帰ろうね。どなたがまとめておられるのか分からないけど、これ以上ないくらい簡潔明瞭な、完璧すぎる名文だ。
カシャリと撮影すれば終わりなので、現地に赴くことができた人は、タダでまるっと分かってしまう幸運に感謝すべきだよ。
※どデカい看板写真を一挙にアップしたら瞬時で完了することですが、画像だけの意味不明ページとして処理される傾向ですので、メンドーな文字起こし作業を実行。

マジメンドー。この苦労、伝わったら嬉しい……。


「1551年(天文11年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった毛利元就は1553年(天文22年) 晴賢に対し拳兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であったため、奇襲の一計を案じた。

平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め1555年(弘治元年)5月、宮島の宮尾に城を築き、陶の2万余の大軍をおびき寄せた。

同年9月30日、元就は3500の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌10月1日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲 した。これに加え大鳥居側の海から元就の三男、小早川隆景の軍と宮尾城の兵が呼応し、 厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。晴賢はわずかな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世に言う厳島合戦である。

この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた嚴島神社の再建、修復に務め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである」
(看板説明文。漢数字は横書き用英数字に変更)

龍ヶ馬場(駒ヶ林)

設置場所:駒ヶ林
説明:ロープ―ウェイの終点、弥山から行くことができる。看板は二種類で、駒ヶ林の説明と、ここで行われたとされる戦闘についての説明。ここにはもちろん、戦闘の説明を載せる。
世紀の大合戦はあっという間に終結してしまい、総崩れとなった大内軍はただ逃げるだけだった。なので、大規模な戦闘はあまりなかったのが現実。その多くが撤退と、総大将を逃がすためのものだった。
その中で、ここ、駒ヶ林での戦闘は最後まで頑強に抵抗したということで、今に語り継がれている。
毛利びいきの地元の方でも、「弘中は好きだ」という人が多い。

「弘治元年(1555)寅の刻(午前四時)に始まった、 厳島合戦は、毛海軍の奇襲攻撃が功を奏し 、忽ちにして大勢は決した。陶の勇将弘中三河守隆包は、主君晴賢を大元へ落とした後、僅か百騎騎ばかりの兵と共に弥山に登りここにたてこもった。

これを追ってきた吉川元春以下の毛利方は、数倍の軍勢でこれをとり囲んだが、隆包の必死の働きにどうしても、討ちとることができず、やがて柵を作り兵糧攻めの作戦をとった。

このため、さしも勇猛なる武将弘中三河守もついにカ尽き、 二日後の十月三日 嫡子、中務と共に井上源右衛門らによって討ちとられた。

こうして史上名高い「厳島の合戦」は終りを告げたのである」(説明看板)

駒ヶ林についての説明記事はこちら ⇒みやじま・えりしゅおん「駒ヶ林

※まだまだ続くよ。
To be continued

初出:2021年6月20日 08:26 「分家」サイト上に一瞬だけ公開。