一族の譜

今回は先祖の話。
多々良氏の惣領・大内からあれこれ分家した中の一つが陶の家。
最初に右田家が本家から分れ、そこからさらに分家したのが陶。
敢えて系図をつくらず、最近流行りの「流れ」で理解と思ったけど、何やら見にくい。
系図に直そうかな……。

弘詮ゆるく語る――弘護肖像画賛から

我らの出自とつながりをそろそろ覚えてもらおうかと思う。
ここではなんでも「ゆる~く」解説せよ、とあるが……?

……ゆる~く?
のんびり、まったり、堅くならずに~。誰でも気楽に読んで「分る」ようにお願いします。

我らの本家は「大内」と名乗る一族。
そこからじつにたくさんの分家が分れ出た。
……いちいち覚える必要はない。

文亀一年(1150)、兄上の菩提を弔うために、母上が建てたとされる龍豊寺。ここに、雪舟の手になるとされる兄上の肖像画が遺されていた。
もっとも、これは本来、我ら一門の菩提寺たる龍文寺にあったのを、やがて龍豊寺に移したものらしい。
兄の三回忌に合わせて作られたものが、今に至るまで完全な形で保管されていたことは嬉しい限り。その文化財的意義がどれほど大きなものであるかは、言うまでもなかろう。
加えて、この肖像画に書かれた、以参周省の「賛」にも歴史的価値がある。
我が兄の功績はもちろん、主家大内の起源から、我ら陶の家が起るまでをも書き添えている。この画賛を「史料」として扱っている研究者も多い。

そこで、我ら一族の系譜をこの画賛から紐解いてみることにしよう。

百済国・聖明王
⇒第三皇子・琳聖――――正恒(多多良氏)――――七代正恒――――貞成――――嫡男・盛房、次男・盛長――――弘賢(陶氏)――――弘政――――弘長――――盛長――――盛政――――弘房――――弘護

うーーん。「ゆる~く」やりすぎたか。

飛鳥と呼ばれた時代、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子などの頃である。
百済から「琳聖」という王族が周防国にやってきた。
これが我らの始祖であり……。

ストーーップ!! その、「ご先祖様」の話はしなくていいので。
……?

ミルがもちっと詳しく語る――右田家の分家・陶

外祖父様が抜き出した画賛の文章だけだと、途中がかなり省略されている。
これだといきなり陶が出てきたように見えるけど……。
渡来したご先祖様から16代目盛房という人の時、先ずはその兄弟が「右田」姓を名乗って分家したんだよ。
つまり、父・貞成⇒嫡男・盛房(惣領を継いで大内)、次男・盛長(分家して右田姓)ってコト。
ここでいったん、本家とはお別れし、「右田」という一族だと思って欲しい。
さらに、この一族からも分家があらわれ、それがここ「陶」の人たち。
右田盛長の子孫・弘俊の代に分家した弘賢が「陶」の地に住んでいたんだ。

分れ住んだのが「陶」というところだったので、それが「名乗り」となった。

ちなみに……「右田」も地名だよ
ただし、初代・弘賢のつぎ、弘政の代には富田保に移っている。今の城跡があるところ一帯だ。より近い先祖を振り返れば、右田の家だけど、分家した陶のほうが全国区になってしまったみたいだね。
その後も、右田家と陶家とはとても親しい関係が続く。互いに養子を出し合ってたりして、お家の存続をはかり続けたんだ。だから、右田になったり陶になったり、苗字が変わった人もいた。その辺りは、一人一人順番に見ていくときに確認しよう。
右田弘俊――――陶家初代・弘賢(法名:海印寺道意)――――二代・弘政(長門守護代、春林道榮)、右田弘綱(右田家に養子入り)
右田弘綱――――盛長☆
陶弘政――――三代・弘長(長門守護代、道琳)――――四代・☆盛長(長門守護代)――――五代・盛政(長門、周防守護代、龍文寺殿、大造均公大居士)――――六代・弘房(泉福院殿、文月道周居士)――――七代・弘護(長門、周防守護代、昌龍院殿 建忠勳公大禅定門)、右田弘詮
弘護――――八代・武護、九代・興明、十代・興房(周防守護代、大幻院殿 透麟道麒居士)
※――――は代替わり、「、」で横並びは兄弟関係

何で? 俺、名前ないんだけど……まさか、夭折しちゃったとか?
案ずるな。お前の兄もない。恐らく、書きかけなのだろう。俺の名はしっかりあるがな、ははは(八代目)。
五郎のお父上までしか書いていないよ。あの子に己の正体を悟らせたくないから。内諸にしてね。
陶弘護肖像画賛

陶弘護肖像の画賛。肖像画本体とともに、きわめて史料的価値が高いもの。肖像画のレプリカは徳山美術博物館にて、常設展示されているほか、インターネット上でも確認できる。画賛についても、『大内遺文』等の史料集に全文が載っている。